■完璧な時代1

 

 完璧な時代。そんな時代があったなんて、誰かに信じてもらおうなんて思わない。それを知っている人は知っているし、知らない人は知らない。ただ、それだけ。

 これは、小説ではなく、その時代の記録な訳だけれども、それすらも疑う人を説得しようとは思わない。ただ、当時を知る人がうなずいてくれればそれでいい。

 完璧な輝きは日々の生活の至るところにあったし、それは完全に僕らのものだったのだ。本当に。

 

 話は、まず僕がバリ島のサーフ・トリップから帰ってくるところから始めたい。いつの年だったかは、敢えて言わない。ジャラン・レギアンがまだ一本道に毛の生えた程度だった頃、日本全体がとても豊かだった時とだけ言っておく。そして、僕は大学の二年生だった。

 そもそも、バリに行ったのは、映画撮影という大義名分のためだった。文学部に籍を置き、《映画紳士会》という名の同好会に所属する僕には、そろそろ映画を一本撮っても良い時期が来ていた。シナリオ《カットバックの王様》をゼミの課題として書き上げた僕は、その中に、ウルワツ神社下のサーフィン・セッションと、ウブドゥのケチャ・ダンスの幻想シーンを入れておいた。夏休みの前には、僕らの同好会が卒業生に請われる形ですることになっている恒例の中元の配送アルバイトがあり、そこで稼いだ金を充てれば、物価の安いバリのことだから、ひと夏ぐらいなんとかなる。そんな考えでこの島に来たのだが、仲間の一人がバカンスに来たフランス女性と恋に落ち、また、強い円を後ろ盾にあまりに気持ちの良い時間を過ごせるおかげで、夏休みはとうに終わっていたのに、僕らはまだ島にいた。滞在期限の延長のために、わざわざシンガポールまで行って、コーヒーを一杯飲んで帰ってくるなんてこともしていた。

 父親は、そんな僕に対して寛大だった。大学なんて、しょせん、勉強に行く場所ではないと考える彼は、塾でできる人間関係の大切さをよく知っていた。だから、僕が《映画紳士会》の仲間と遊んでいる限り、何も言わなかった。

 そんな父であったが、入学に際して僕に一つだけ約束させた。それは、彼の母校と僕らの塾との野球の試合だけは、すべて必ず観戦するということだった。明治神宮球場の外野席がまだ芝生だった頃から、息子を連れてきて、大学で学ぶということが何であるかを肌で教えた彼にとって、春と秋、年に二回行われる試合こそが授業だった。

 大学在学中、その約束だけは、僕はかたくなに守り通した。

 準一と、そのガール・フレンド美樹は、もうナーシー・ゴーレンを食べ飽きていた。下町の野球少年だった正行は、新人左腕の投げぶりを見たがっていた。だから、長居しすぎたバカンスをそろそろ切り上げるのに、異議はなかった。

 最後までごねていたのは、当然ながら、修だった。ビアリッツから来た、アルジェリア人と白人のハーフのマリー・アンジュは美しく、その彼女をバリに残していかなければならない修は、惚けた詩人になっていた。マリー・アンジュが教えるジャック・ブレルのシャンソンを、クタ沖に沈む夕陽を背景に肩寄せ合って唄う二人は、確かに8ミリカメラにおさめるべき絵だった。伴奏のギターを弾いたバリニーズの手に幾ばくかの金を落とす修は、あまり開けることのない仏文の教科書のボードレールの挿し絵を真似ているのか、うつむき加減に気どっていた。

 もちろん、五人の誰もがバリを去りたくはなかった。波は最高に良いし、朝に漂うインセンスの甘い煙と、夕刻のガムランのけだるい調べには、男と女を求め合わせる力があった。










 だから、帰りの航空券の購入はずるずると一日延ばしになり、けっきょく成田に着いたのは野球の試合の前夜で、僕たちは球場で徹夜をして座席取りをする《映画紳士会》の仲間たちにそのまま合流することにした。

 成田には、それぞれのガール・フレンドが迎えに来ていた。正行の彼女は、日本女子大。マリー・アンジュを腕の中にバリで目を潤ませていた修は、ここでも女の子を見つめ涙ぐんでいた。彼女は、共立女子大。カップルで旅に加わった準一と美樹には、美樹の兄が迎えに来ていた。美樹の兄は、《紳士会》のOBだ。

 僕のためには、ケイジュンが待っていた。

 「健太くん、真っ黒、土人みたい」

 僕は照れ隠しに笑ったが、Tシャツ一枚で空港の駐車場の風にさらされ、鳥肌を立てていた。エンドレス・サマーから、十月の街に戻ってきたのだ。

 腕を組んで震える僕に気づいたケイジュンは、車の中に着るものが無いか探してくれた。彼女の車は、白いドイツの最高級車。彼女の父親は、この車を販売するビジネスを愛知で手広く行っていた。

 「ごめんね、健太くん、何も無いよ。あわてて、迎えに来たから、服のこと考える暇がなかったの」

 「加藤さん! 加藤さん! コートかなんか、無いスか?」

 僕は、MGの小さな車体にどうやってサーフ・ボードを入れようか格闘している美樹の兄にむかって言った。

 「健太、お前のほうに、準一のボードと美樹のブギー・ボード、入んないかな?」

 「こっちも、ケイジュンの車にキャリアーがないから、どうしようかと思ってたんです」

 「助手席を倒して、ボードを突っ込んで、お前は後ろに座るしかないな」

 「えー、久しぶりに彼女といっしょなんですよ。それなのに、後ろですかあ?」

 「しょがない、しょがない」

 先輩の加藤さんは、汚れたままのボード・バッグをそのまま白い車に突っ込もうとした。

 「だめえ、そのままじゃあ。椅子が汚れちゃう」

 ケイジュンが悲鳴を上げたので、僕は自分の旅行バッグの中から、大きなタオルを取り出して、シートに掛けた。

 「加藤さん、気をつけて下さいよう。ただでさえ、コイツ、サーファーは不潔だって思ってるんです」

 「悪い、悪い、ケイジュンちゃん、ゴメン」

 「それより、加藤さん、僕が着れそうなもの何かありませんか? 寒くてたまらないんです」

 「これ、着たら、健太くん?」

 美樹が兄の車の中に見つけた上着を投げてよこした。

 それは、学生服だった。

 「何ですかこの制服? 加藤さん、明日、応援指導部に混じるつもりですか?」

 「ちがうちがう。それは、塾高ん時の。でも、なんで、車ん中に入ってたんだろ?」

 「まあ、いいや、加藤さん。お借りします。凍え死ぬよりましです」

 僕はさっそく学生服に腕を通した。

 「かわいい、健太くん。昔の不良高校生みたい」

 ケイジュンが声をたてて笑った。

 加藤先輩も、そのいもうと美樹も、笑った。他の男たちも、ガール・フレンドたちも、笑った。笑えてしまえば、すべて正しいと、僕らは思っていた。


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