■完璧な時代10

 

 《銀座の街で暴れる学生の群れを、二人で見下ろす》
そんな事にいったいどんな価値があるんだと、たいていの人は思うのかもしれない。でも、僕らにしてみたら、パンプローナの牛追いや、リオのカーニバルで、縁もゆかりもない他人が暴れるのを見るよりは、遥かにまともなことだった。現役の学生としてそれができるチャンスは、一生のうち、たった四年、すなわち、八回しかないのだ。そして、そのとき一緒にいてくれるひとは、自分にとって特別な女性でなければ意味はないと僕は確信していた。
中華風のリゾットと軽妙な冗談を僕の仲間と分かち合っている、黒いドレスに身を包んだこの年上の女性が、これから僕の未来に特殊な意味を持ってくるだろう予感はしていた。問題なのは、そんなことじゃなかった。問題は、彼女を説得してホテルに連れていくまであと数時間しか無いことだった。
「ねえ、健太くんのサーフィン映画、どうなったの?」
「夏乃先輩の目の前にいるのが、主演の二人ですよ」
夏乃は、美樹の顔を、彫像でも吟味するかのように見つめた。
「そうよね。美樹ちゃん、美人だもの。健太版《ビッグ・ウェンズデー》には、ぴったりね」
「ありがとうございます。でも、なんか、照れる」
美樹は赤面して下を向いた。
「青学の、モデルしてる美女だって聞いてたから、・・・。なんだ、加藤くんの妹さんなら、最初っから、そう言えばいいのに、健太くんも、もったい付けちゃって」
準一は横を向いて、苦そうに《青島ビール》を飲み込んだ。
「美樹ちゃんは、青学の英文なんだ」
僕がそう取りなすと、夏乃の瞳は一瞬だけとても攻撃的な光を放って、それを隠すように横を向いた。横を向いた以上、何かをしなければならなかった。夏乃は煙草に火をつけた。
「すごい! じゃあ、美樹ちゃん、英語ペラペラなんだ? 私、アホウ学部オセイジ学科だから、英語ができる人、尊敬しちゃう」
夏乃はそう言って、煙草を吸った。テーブルへ煙を吐かないことが、いい言い訳になった。夏乃は横顔を見せながら、目だけは美樹を見つめていた。
この視線の意味が解れば、夏乃を夜までつき合わせることが容易に出来たはずだが、僕はまだ二十だった。夏乃だって、二十三だった。僕はただ時計だけを気にしていた。《ライオン》に行かねばならぬ時刻が、来ていた。

 









 

 「塾生、どうした?」
僕らが通りを歩いていると、灰色の背広を着た初老の紳士が声をかけてきた。僕らが持っていた《とんがり帽子》に気づいたからのようだった。
「いやあ、負けでした。完敗でした」
僕が答えると、
「いやあ、残念だったな。まあ、これで一杯やりたまえ」
と言って、紳士は僕の掌に紙幣を握らせた。そして、
「いや、実は、私は塾員じゃないんだよ。申し訳ないが、勝ったほうの学校のOBなんだ。いや、良かった、良かった。君らも、明日の応援、頑張りたまえ。じゃ、失敬」
と手を上げて、駅のほうへ消えていった。僕は創立者の肖像が描かれた紙幣を手に、《ライオン》の前に残された。
僕は、この古くさいビア・ホールが好きだった。もちろん、頻繁にここに来て飲むということなどなかった。年に二回、春と夏の試合の時だけだ。それでも、この広い空間で大きなジョッキを手に飲むと、銀座というほのぼのとした歴史に、遅まきながら自分も参加する気がした。
「カンパイ!」
試合に勝っても負けても、この最初の一杯は格別だった。《イッキ》という当時の流行り言葉もあった。《一気に杯をほす》、文字通りの乾杯だ。
僕はグラスにグラスをガチリとぶつけて、美しい夏乃と目を合わせる。冷えたビールが喉を落ちる。そして、満足感。《この瞬間は、たった今、一度きりしかない》という馬鹿馬鹿しいほど明かな真理を、僕は思い出す。
この点でも、僕は大学に入って成長したように思う。波乗りを始めてからは特に、《同じ波は、二度とやって来ない》という事を嫌になるくらい体験させられていた。
夏乃の黒いドレス。その肩に落ちる長い髪に、僕は触れたいと思った。



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