■完璧な時代14

 

 そして、目が覚めたときには、ベッドの中で横になっていた。
「夏乃さん?」
黒いドレスの女が窓にもたれているのが見えた。指先から昇る煙草の煙が、夜空に映った。
「どう、気分は?」
夏乃は、外を見つめたまま言った。
僕は頭を振ってみた。口の中では戻したような苦い味がしたが、気分は悪くなかった。
「だいじょうぶです」
「日比谷公園の噴水に飛び込んだのよ、覚えてる?」
「はい」
濡れた髪が枕を湿らせていた。
「馬鹿ね。一年生じゃないのに」
「下級生がやりたがらないことを、上級生が率先してやるのが、この学校の校風ですから。でも、よく、このホテルが判りましたね?」
「それは、わかるわよ。だって、健太くん、電柱によじ登って、ホテルの名前、叫んでたんだもの。『愛してます。僕は、高坂夏乃をしてます。僕は、これから、高坂夏乃とホテルに行きます』って言いながらね」
「どうも、すみません。夏乃さんに、いい恥をかかせてしまいました」
「本当よ、まったく。あなたが私の後輩じゃなかったら、捨てていっちゃうところだったわ」
夏乃は、笑った。
「外で、みんな、暴れてますか?」
「どうかしら?」
僕はベッドから出ようとして、自分が裸であることに気づいた。
「あ、夏乃さんが脱がしてくれたんですか?」
「そうよ。私以外に誰がいるの?」
夏乃は優しく言った。
「ありがとうございます」
シーツの下をのぞくと、僕は下着も付けていなかった。
「なんか、愛し合った後みたいですね」
「そう。私、健太くんの体、見ちゃったもん」
「ハハ、まいるな、それは」
「だって、しょうがないじゃない。濡れたままでいたら、病気になるわ」
夏乃の声には、柔らかいものがあった。招かれているような気がして、僕は立ち上がった。毛布からシーツをはずし、腰のまわりに巻いた。
「まだ、通りに、いますか?」
その言葉を口実に、僕は夏乃の脇に立った。
「どうかな? もう遅いから」
「夏乃さんは、通りを見てたんじゃないんですか?」
「ううん、ただ、なんとなく」
「ねえ、夏乃さん、僕、酔ってたからわからないけど、・・・。僕たち」
「おバカさんね。何、言ってるの」
「じゃあ、これから」
僕が夏乃に顔を近づけようとすると、彼女は自分の鼻をつまんだ。
「くさーい。こんな臭いさせて、先輩にキスしようなんて、百年早いわ。まず、歯をみがいてらっしゃい!」
「す、すみません」
僕は、言われるままにするしかなかった。
「ついでだから、ちゃんとシャワーも浴びなさい」
背中に、声が投げつけられた。

 









 

 シャワーの金具には、ハンガーに掛かった濡れた服がぶら下がっていた。かたく絞ってはあったが、それでも垂れた水がバス・タブに小さな水たまりを作っていた。大学の付属高の制服と、同好会の揃いのTシャツ。Tシャツの胸には、《映画紳士会》という文字と、映画《思い出の夏》の一シーンがプリントされていた。年上の美しい女の横顔と、それを遠くから見つめる少年の姿だった。少年は十四歳、女は、軍人の新妻な訳だから、二十代。二十代後半であっても、おかしくはない。
(それに比べたら、夏乃さんと自分の年齢差なんか、無いに等しいのに、・・・)
熱い湯を頭に浴びながら、僕は少年と新妻が最後に踊るスロー・ダンスを思い出していた。そして、朝になると、レコードだけがただ回っている。
(だだ、女の人と揺れるだけなら、自分だってできる)
新入生の時の共立女子大のダンス・パーティーで悔しい思いをさせられてから、これでもそれなりに踊りには行ったのだ。バリの《サリー・クラブ》でもずいぶん踊った。東海岸の白人少年ハーミーに、ダンスで自分が劣っているとは思わなかった。
(じゃ、何が違うんだ?)
六本木の俳優座で、林檎でも落ちるようにポトリと一晩だけこの映画が上映されたとき、僕はケイジュンを誘った。
「健太くん、これ、ポルノ映画じゃない」
と見終わった後に、彼女は怒った。コンドームを薬局に買いに行くシーンがあるからか、浜辺で引っかけた女の子と初体験するシーンがあるからか、それとも、女と少年の間の《年齢の壁》がどこか彼女の心の壁にダブったのか、頬を膨らませたケイジュンはタクシーを拾うと、一人自分のマンションに帰ってしまった。
(ちがうんだ、ちがうんだ。僕らは、みんな、居場所をまちがえていたんだ)
僕は、シャワーに噛みつくように口を開いた。強いカルキの味をさせて、温かい奔流が口を漱いだ。



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