■完璧な時代16

 

 週二回の授業に使われる会議室に入ると、空いた席がそこしかなかったので、僕は夏乃の隣りに座った。その隣りには、一平さんが座っていた。一平さんは社会人ではあったが、定職にはついていなかった。もっとも、正式には、実家が経営する酒造会社の東京支配人ということになっていて、住んでいる世田谷のアパートがその事務所だった。のんびりとした趣味人でありながら、愛する女性を追いかけてパリまで行ったことがあるくらい熱い心を持った人でもあった。
席に着く際に二人と目があったので黙礼すると、
「ども」
と一平さんは小声で言ってよこした。
夏乃先輩は、応えなかった。
あの夜のことをどう思っているのだろうかと想像して、胃のあたりがきゅっとしまった。
しばらくして、彼女は走り書きのメモを滑らせてきた。
(あのあと、風邪ひかなかった?)
とノートの切れ端に書かれていた。
(だいじょうぶ。でも、野球の試合は負けちゃったけど)
とその紙片の隅に返事を書いて彼女の顔を見上げたが、夏乃は表情を変えなかった。
授業は、エディプス・コンプレックスという言葉の元となった「オイディプス王」を用いたシナリオ理論の説明だった。年老いたシナリオ作家の講義は、今から思えば、緻密で有意義なものだったはずなのだが、その頃の僕には「いかに映画を組み立てるか」よりも「いかに映画のように生きるか」ということのほうが大切だった。父殺しのフロイドの理論よりも、一平さんがパリで聞きかじってきたジャック・ラカンの心理学のほうに新鮮さを覚えていた。だから、老講師の授業は、古ぼけた映画会社のビル同様、日本がまだ第三世界だった頃の残り滓のように思えた。
僕の書いた「カット・バックの王様」は、現在進行形の自叙伝のつもりだった。映画を撮るということと瞬間を生きるということの境界を取り除いてしまったら、何ができるのかという実験だった。
だから、ストーリーは単純。千葉の海で出会った少年と少女が、バリに住む伝説のサーファーに会いに行く話だ。
バリ島では、たくさんのフィルムをまわしたし、たくさんのいい波にも乗った。だから、実験は成功だったと僕は思う。
ただ、うっかりと、そのことを休憩時間に口にしてしまったのがいけなかった。一平さんやラボの仲間たちのノゾキ趣味な好奇心は、幸福そうに日焼けした男をほうっておいてはくれない。子細に及ぶ尋問が、授業が終わったあとに行われることになったてしまった。

 









 

 エレベータから降りるなり、
「バリでどんな悪いことをしたか、ぜんぶ白状させますからね」
一平さんがそう言って僕の腕をとると、夏乃がもう一方にしがみついて、
「だめよ。逃げちゃ。今夜は、宗教裁判なんだから」
と笑った。
外は、冷たいビル風が吹き始めていた。晴海通りの信号待ちは薄着の者には辛く、車の流れが途切れると、ラボの一群は先を争うように新築のビルの中になだれ込んだ。ここのバーで一杯やるのが、授業後の恒例となっていたのだ。
「俺が新入社員だった頃は、遊郭から出勤して、家には帰らなかったものだよ」
老講師は、そう言っていた。
酒無しで芸術を語る気になんかなれない。そんな優しい伝統がこの映画会社には流れていた。
「ねえ、小杉さん、バリの女の子たちは誰とでも寝るって本当ですか?」
一平さんが僕のグラスにビールを注ぎながら尋ねてきた。目の前では、夏乃先輩が薄笑いを浮かべながら水割りを飲んでいた。
「そんなことないですよ、一平さん」
「でもね、小杉さん、わたし、読みましたよ、週刊誌で」
「それは、日本でも、アメリカでも、どこでも、同じだろうけど、バリにだって男と簡単に寝るコはいますよ。だけど、女の子がみんなそうだって訳じゃないですよ。逆に、外国から来る女の子のほうが、ガツガツと男をあさっているような感じがするけど」
「ねえ、ねえ、健太くん。じゃあ、日本人の女の子が男を買うっていう話も、嘘なの?」
「あ、それは、ホント」
「健太くんも、売ってくれって声かけられた?」
「だったら、しっかり稼いじゃったりするんですけどね。でも、ゼンゼンだめ。日本の女たちが買うのは、インドネシア人の男ですよ」
「あら、なさけない。健太くん、もてないのね」


<未完>




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