■完璧な時代3
成田空港から直行したので、僕は日本の硬貨をたくさん持っていなかった。だから、広間で飲んでいる《紳士会》の仲間たちの間をまわって、いらない小銭をサーフィン用のヘルメットに落としてもらわねばならなかった。白いヘルメットには、ナイフで筋を引いたような縞が無数にできていて、そこに緑の苔がこすりつけられていた。ウルワツで波に巻かれたときに、底の岩に触れてできたのだろう。
十円玉を集めた僕は、アドレスブックを手に店の外に出た。静かな電話ボックスを探したが見つからず、駅の公衆電話を使わねばならなかった。
友人の友人。高校の同窓生。ダンス・パーティーで知り合った女の子。明日神宮に連れていけそうな女友達に電話をしたのだが、前日に連絡をして約束するのは簡単ではなかった。海で知り合った女の子には、電話をかけなかった。場違いな女の子を同伴して、仲間にも、そして、彼女自身にも気まずい思いをさせる訳にはいかなかった。
結局、こんなとき頼りになるのは、同じ大学の卒業生だった。
僕らにとってこの試合の夜がいかに大切なものであるか解ってくれているし、大人なので時間の融通がつくのだ。
「ねえ、夏乃先輩、お願いだから、助けてよ。このままじゃ、みんなの前で、カッコがつかないんだ」
高坂夏乃は、《紳士会》のOGではなかった。文学部のゼミの先輩でもなかった。知り合ったのは、ある映画会社のシナリオ・ラボラトリーでだった。塾の先輩でありながら、ラボでは同期という気安さから、頼み事はしやすかった。
「さては、彼女にふられたな」
夏乃はと笑うと、三塁側のスタンド下に十一時頃には行けると言った。
「ありがとう、夏乃先輩」
夏乃の笑い声を聞いた僕に、嬉しさがこみ上げてきた。
(なんで初めから夏乃先輩を誘わなかったんだろう?)
そんな疑問すらわいてきて、手にしていたヘルメットをかぶり、コンクリートの壁に頭突きを喰らわせ大笑いしてみた。
(悪くない、まったく悪くない!)
頭突きをしながら独りで笑っている僕を、改札の駅員たちがいぶかしげに見た。
「高校生?」
「いや、ちがうだろ」
という会話が聞こえたので、僕は《大樽》へと逃げた。
「小杉、なんだよ、その格好、もともと馬鹿だったくせに、バリに行ってキチガイになって帰ってきたのか?」
と酔った先輩の一人が冷やかした。
「でも、こんなキチガイに限って、もてたりするんだよな。『小杉健太さん、いますかあ』なんて、こんな飲み屋にまで女が電話をかけてくる。やって、らんねえよなあ」
誰だろうと僕が考え込んでいると、
「ケイジュンちゃんからよ」
と加藤さんの妹の美樹が助けてくれた。
《大樽》の公衆電話は、トイレの出入り口の脇にある。
僕が電話をかけると、ケイジュンは、
「やっぱり、かわいそうだから、明日行ってあげる」
と言った。
「いやあ、同情されても、つらいだけだから、・・・」
と僕は電話を切った。すると、いつの間にか脇に立っていた加藤さんが、
「いいのかよ、断っちゃって?」
と僕の顔をのぞき込んだ。
「はい、いいんですよ、あんな女」
「あ、お前、もっといい女と約束したな! 誰だよ? 白状しろ!」
と加藤さんはニヤリとしが、僕が明日来る女性の名前を言うと、その顔が青くなった。
「え! 高坂の娘が来んの!」
夏乃の父親は法学部の教授で、加藤さんのゼミの指導教官だったのだ。
「『加藤君ならよく知ってる。昔デートに誘われて断ったことがある』って、夏乃先輩は言ってました」
これは僕のでまかせだったが、青い顔が赤くなったところを見ると、どうやら図星だったようだ。
《大樽》でも、そのあと行った終夜営業の渋谷の飲み屋でも、加藤さんは僕のそばに座らなかった。