■完璧な時代6
三人は、神宮球場にむかって歩きだした。
夏乃は今頃何をしているんだろう、と僕は思った。横浜のマンションから来る彼女は、もう家を出てしまっただろうか、と考えた。
まだ、間に合うかもしれなかった。電話をすれば、まだ、家にいるかもしれなかった。
しかし、ネット裏まで、いくつもの公衆電話の脇を通り過ぎたが、結局、僕は電話をかけなかった。
「準一はどうする?」
僕が尋ねると、彼は、バリで波乗りはやり飽きたから、しばらくする気がおこらないと答えた。
「美樹を待たないで、海に行ったりしたら、妹はメチャクチャ怒るぜ」
と加藤さんが冷やかした。
深夜に家に帰り、早朝に起きて弁当作りをしなければならなかったポン女のミサオは、眠たげなどころか、小さなハプニングに興奮していた。その肩に手を置くと、正行はあくびをしながら言った。
「俺は、行くことにするよ。エースが投げるから、あの左投げの新人、今日の登板はないだろ。ミサオが春に試合を見てなければね、初めてなら喜ぶだろうけど、二度目だからな。健太はどうする?」
「僕は、夏乃先輩を待つよ。それで、もし、先輩が行きたいって言ったら、追いかけるさ」
と、そんなことにはならないことを承知で言った。
学生たちが動き始めた。スタンドの入場口が開いた。
「小杉たち、また、なんか勝手なこと思いついたのか?」
三年の長崎が、あきれた顔をして僕を見た。長崎は《紳士会》の会長を務めていた。
「そんなことないですよ。僕は残ります。奴らと一緒にしないで下さい」
「まったくさ、夏の合宿にも参加しないで、バリ行ってたんだって?」
僕は会長に抱きついて、その頬にキスをした。
「うえっ、きったねえ。なんだよ、これ?」
「バリのお土産のキスです。あっちじゃ、ちゃんとカメラ回してましたから、勘弁して下さい」
「気持ち悪いことすんなよ。さあ、早くスタンドに入って、座席取りしてくれ」
「はい」
「小杉、お前らも、もう一年じゃないんだから、自覚を持って行動してくれよな」
「わかりました」
「長崎、今日は、あんまり、大きいこと言わないほうがいいぜ」
二人のやりとりを脇で聞いていたOBの加藤さんが、ニヤリとした。現会長の長崎は、法学部のゼミでも加藤さんの後輩だった。
「加藤さん、こいつらには、びしっと言っとかないとダメなんですよ。自覚がないんだから」
「だからさ、今日だけはよしとけって」
「今日だけ、ですか?」
会長は意味が解らず、いぶかしそうにしていた。
修と正行はガール・フレンド達と球場からいなくなり、僕らはスタンドの中に入った。神宮の内野通路は、いつもと同じように、立ち食いうどんの臭いがした。
一年生が徹夜で並んでいてくれたおかげで、《紳士会》は、応援指導部のすぐ側の、グラウンドに一番近い所を取ることができた。僕は会長と準一の間に座った。そして、席に落ち着くなり、バーボンを三つの紙コップに注いだ。
「準一、長崎さん、飲むでしょ?」
「《ワイルド・ターキー》か? 気の利いたもの持ってんじゃないか」
会長はコップを受け取りながら言った。
「消毒ですよ。消毒。長崎さんにキスしちゃったから」
僕はガラガラと喉を鳴らしてうがいをしてみせたので、バーボンの香りがむーんと漂った。
「いい匂いがするなあ」
応援指導部の一人がうらやましそうに言ったので、僕はボトルと紙コップを回した。
「いいの? 全部飲んじゃうよ」
「それは、勘弁して下さいよ。友達が来るんで、彼女のために準備したんです」
「ハハ、冗談、冗談。どうもありがとう。縁起がいいよ。今日は、きっと勝つよ」
黒い大学生の制服を着た応援指導部員が、紺の制服を着た僕の肩を叩いた。
「それにしても、《映画紳士会》は、いつもよく応援に来てくれるから、俺達は感謝してるんだ。雨の日の東大戦なんかにだって来てくれるからね。こんなに、まめに応援に来て、映画作っている暇があんのかって、いつも、噂してる」
「こいつらは、真面目に映画作ってる。なあ、小杉。バリの撮影旅行から昨日帰ってきたばかりだもんなあ」
会長が皮肉混じりに言った。
「じゃあ、バーボンの君は、高校生の役なんで、そんな格好をしてるわけだ」
応援指導部員は一杯だけ注ぐと、ボトルとコップを帰してよこした。
僕も、飲んだ。
「うまい」
高坂夏乃を待つことで緊張した体に、ストレートのバーボンが熱く沁みた。
僕は立ち上がって、加藤先輩を探した。
「加藤さん、どうも、ありがとうございます。一杯いかがですか?」
加藤先輩は、僕より、四、五段上の離れた席にいた。そして、何も言わず、《気にするな、気にするな》と手振りで答えた。彼も、普段と違っていた。