■完璧な時代7
しばらくして、美樹がスタンドにやって来た。
「おはよう」
僕の映画の主演女優は、すがすがしく笑った。
「疲れてない?」
準一が優しく尋ねた。
「ううん。久しぶりに自分のベッドで寝たから、ぐっすりと眠れた。準チャンこそ?」
「うん、ちょっと、眠いかな」
と言って準一は眼鏡をハンカチで拭った。
「修クンと、正行君は?」
「あいつらは、海へ行っちゃったよ」
「へえ、波がいいんだ。準ちゃんも行きたかったんじゃないの?」
「あれだけ、バリで乗ったんだよ。それでも、乗り足りないなんて、あいつらは本当のサーファーだよ」
「でも、野球の観戦だって、おんなじようなもんじゃない」
「まあね。でも、つき合いだからさ」
「ホントに野球観戦をしたいのは、健太くんだけよね。だって、年上の綺麗なガール・フレンドが来るんだもんねえ?」
美樹が僕を冷やかした。
「美樹チャンだって、綺麗だよ。だから、映画に頼んだんだから」
「健太くんたら、下手なお世辞!」
と美樹はまんざらでもなさそうに微笑んだ。
「そう、その笑顔なんだよ。そんな風にかわいく微笑んでくれればいいのになあ。カメラの前だと、いつも緊張しちゃうんだから」
美樹が美人だから映画に出演してもらったのは嘘ではなかったが、モデルのバイトをしている珠美に最初に声をかけたことは言ってなかった。珠美は出演を承諾してくれたが、明治のラグビー部の彼が駄目だと言った。《あんな軟弱な大学の映画になんか出てはいけない》というのが理由だった。準一はそのことを知っていたが、美樹には話してないはずだ。同じ青山学院に通うのだ。選択科目で授業が一緒になって、二人とも気まずい思いをしかねない。
「ねえ、美樹さん。なんで、こんな不真面目な健太や修ばっかりがいい目に合うんですか? 不公平ですよ。ねえ、僕にも青山の女の子、紹介して下さいよ」
会長が言った。現会長・長崎の二学年前の会長が、加藤さんだ。加藤さんの自宅がある高円寺の《阿波踊り》では、純情商店街の連に混じって、《紳士会》の部員も踊る。だから、会長も美樹も旧知の間柄だ。
「長崎さんは、だめよ。競馬にばっかり夢中なんだもん。波乗りか、最低でも、スキーくらいはしないと、女の子は退屈しちゃう」
「そうか、おい、健太、なんとかしろよ! そうだ! お前らが、スキー・ツアーでも企画しろよ。そうしたら、俺も参加してやるから」
「でも、長崎さん、スキーできないじゃないですか!」
「大丈夫、大丈夫。狭山の人工スキー場に行って、それまで腕を磨いておくから」
「まいったなあ。僕は、もうそろそろ、そんなチャラチャラしたことから卒業しようかなと思っていたところなんですよ。ちょっと、失礼します」
僕は時計を見て、立ち上がった。
夏乃との待ち合わせの時間が来ていた。
夏乃さんは、本当に綺麗だったろうか、と内野スタンド裏の階段を降りながら、僕は心の中に彼女の顔を描いてみようとした。
三つ年上。教授の娘。母親は、元華族。住むのは、横浜山手。そんな言葉だけが頭に浮かんで、肝心の表情が見えてこなかった。よく考えてみれば、女の先輩という事実に既に圧倒されていて、目を見つめて話したことなど僕はなかったのだ。
「いったん出ると、半券がないと再入場できませんよ」
出口で係員の学生に言われて、僕はあわてた。いつも入れておくはずの財布の中に、入場券が見あたらなかったのだ。
「ほんのちょっとのあいだだけなら、いいですよ。僕が覚えてますから」
学生アルバイトは親切にそう言ってくれたが、僕はそれでも困った。神宮で観戦した六大学野球の半券は、これまでに一枚たりとも捨てたことはなかった。自宅の机の中に大切に集めていた。特に、春と秋のシーズンの最後に行われるこの試合は、ブルーの紙に赤い字で入場券が印刷されていて綺麗だったので、僕は好きだった。卒業のときに、四年八シーズン分のチケットを並べて、父親に見せたかった。一枚でも欠けたら、さみしくなる。
ズボンと上着のすべてのポケットを調べたあと、胸に手をやってホッとした。Tシャツの下には、盗難除けの貴重品入れがぶら下がっていた。僕は首に回った紐を引きずりあげ、強靱なプラスチック繊維でできた網袋を取り出した。その中には、パスポートとトラベラーズ・チェックがバリのまま入っていた。
《夏乃先輩が来て、ドタバタするから、なくすといけない》
そう思って、パスポートの中に挟んで、貴重品入れにしまったはずだ。そのこと自体を忘れるほど、僕は緊張していたのだ。
成田で買ったときには純白で真っ新だった貴重品入れは、暑さで流れ出た汗のせいで、薄黒く汚れていた。ほとんど手をつけずに残ったトラベラーズチェックの束は、水分を吸って厚くなり、妙な癖がついて反っていた。パスポートを広げると熱帯の空気がむっと甦る気がした。その最後のページに、乾いた青い紙が挟まっているのを僕は見つけ、財布に移した。