■完璧な時代8
スタンド下は、雑然としていた。楽器や道具を運び込んでいる応援指導部員。テレビ中継用のコードを配線しているジャンパー姿の作業員。旧友と談笑する背広姿の野球部OB。もちろん、のんびりとやって来る現役学生の男女達もたくさんいた。
約束の時間にはなったが、夏乃はそこに現れなかった。
まあ、年上の女なんだから、お化粧とかお洒落とかに時間がかかるのも当然だよな、と僕は考えようとした。正直に言えば、《来ないんじゃないか?》という疑いがまっ先に頭に浮かんだのだが、それはあり得ないという理由を並べて、なんとか不安を鎮めることにした。
一。高坂夏乃は、この学校の卒業生だということ。この学校に通っていたのだから、この試合の大切さはちゃんと解っているはず。
二。高坂夏乃は、法律学者の娘だということ。法律にたずさわるものの娘なのだから、約束はきちんと守るだろう。
三。高坂夏乃は、シナリオ・ラボラトリーで僕と同期だということ。大学の後輩をひどい目にあわせたら、週二回の会合に出づらくなるだろう。
四。高坂夏乃は、・・・。
高坂夏乃は、僕らの学校を卒業した女なのだ。後輩をすっぽかしたって、
「あ、わるい。今度コーヒーでも奢るから、ゴメンね」
とニコッと笑えばそれで済んでしまうのだ。
ケイジュンを断ったのは、失敗だったかな、と後悔し始めたときには、約束の時間を三十分は過ぎていた。ケイジュンは考え直して、わざわざ飲み屋まで電話をかけてきてくれたのだ。
(それを素直に受け入れれば良かったかなあ。だけど、《来なくて良い》と言ったときは、ケイジュンの生意気な横面をひっぱたいたみたいで実に気持ちが良かった!
「そりゃ、君んちは、金持ちかもしらないけど、世の中は、お金だけがすべてな訳じゃない。僕らには、僕らの守るべき価値 ってものがあるんだ。少なくとも、そんなヴァリューを守ろうとする人間達の集まりなんだ、僕らは!」
そうは言葉にしなかったけど、その意味は電話の向こう側にはっきりと伝わったはずだ。失礼な行為にピシャリと言い返して、とってもイイ気分だった。そこにちょっと、サド公爵風の快感を覚えたのを幸運の神様に気づかれちゃったな?)
横浜の彼女の自宅に電話をしようかと迷ったが、それはやめにした。電話をかけて、そこに夏乃が出れば、それは同じ事だった。受話器を握り愚痴るのは、ただ、みっともないだけだ。
(こんな酷いことが、よく、できるよな、・・・。来ないんなら、昨日約束なんかしないでくれりゃ良かったのに、・・・)
夏乃の残酷な思いつきを呪ったが、この非情なジョークも僕らの校風の一部なんだと僕は改めて思った。
スタンドで、どっと歓声がわくのが聞こえた。両校の先発バッテリーの名前が電光掲示板に出たのだろう。
僕は、応援席の仲間の所に戻った。
「あれ、健太くん、ひとり?」
美樹が笑った。
「あ、小杉の奴、女に、ふられてやんの!」
会長の長崎が茶化した。
準一は、そっとバーボンを注いでくれた。
紙コップの中に、ひとひらの紙吹雪が落ちた。シート・ノックのためグラウンドに散った選手へ、応援の学生達が投げたのだ。指笛を鳴らす者、贔屓の選手の名を叫ぶ者もいた。そして、皆が一様に手を叩いた。
敵の真っ白なユニフォームは、新入生が入ってくる春の色。そして、僕らのグレーのユニフォームは、新人が少し大人になる秋の色。そんな風に僕は思っていた。そして、まだ、ここ神宮球場には季節外れの大型台風の影響はなく、すっとぼけたような、それでいて、哀しげな秋晴れの空が広がっていた。
両校の先発メンバーの名前がアナウンスされ、続いて、審判の名前も発表になった。主審は今日も、立教大学OBの鈴木さんだった。彼の「ストライク」というコールは、プロ・アマ通して日本一だと、父親は信じて疑わなかった。もっとも、これは身びいきなところがある。なぜなら、鈴木さんは、父親と同じ中学の出だからだ。普段は、千葉のさびれた街角の、潰れかかった雑貨屋で、つまらなそうに店番をしている。その落差が人生だ、と父親は言う。若い自分がそれに同感して良いのかどうか僕には判らなかったが、鈴木さんのジャッジングは、甲子園でも、ここホームの神宮でも、ハッキリしていて爽快だった。
「プレイボール!」
鈴木さんが右手を掲げて宣言したあとも、高坂夏乃はやって来そうになかった。
「試合、始まっちゃったね」
と美樹が言った。今度は、笑っていなかった。
「まあ、こんなもんさ」
僕はもう諦めていた。