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はじまりはいつも、ムーンからの電話だ。サンタ・クルーズで生まれ育った彼女は、19歳のプロフェッショナル・サーファーだ。
冬は、片貝のシーズン。漁港の中は、今日もいい波がたっていた。ひとセッション終えて風呂に入っていると、電話が鳴った。
「ハイ、タロウ」
ムーンは、いつも早口のカリフォルニア訛りでしゃべる。サーフ・トリップのことを話すときは、興奮してそれがもっと早くなる。
「今年は、大西洋のストームが強いらしい。西アフリカがいいみたい」
私たちは挨拶も交わさなければ、近況も尋ねたりはしない。
二年前にメキシコのサーフ・キャンプで知り合っていらい、何度となく旅をする仲なのだが、お互いが何をしているかなんて、興味はない。
どこで、どんな波に乗るか。それだけが、大切なのだ。
「じゃ、ロンドンのヒースローで合流」
そそくさとムーンは電話を切った。
どの海岸に行くのかは、まだ決めていない。と言うか、決められない。低気圧がいつ、どのあたりに発生するのか、目的地はそれしだいだ。
私は、冬期講習の仕事が終わったところで、自由だ。翌日には、成田から飛行機に乗っていた。
ヒースローの約束の場所に、ムーンは現れなかった。これも、いつものことだ。
私は、二人の共通の友人が住むニュー・キーへ行くことにした。
コーンウォールへ向かう特急にレディングから乗る。
どこに行っても、サーフ・ボードで煩わされるから、公共交通機関は好きになれない。
ニュー・キーのフリストル・ビーチには、イイうねりが入ってきていた。
海岸沿いの古いゴルフ・コースを抜け、坂を下りたところがポイントだ。沖に出るのはきついが、苦しむだけの価値がある。パワフルな波が楽しめる。
そして、そのあとはパブ。
イングリッシュ・ビターを胃袋に流し込んでいるところに、友の携帯電話が鳴った。ムーンからだ。
「やっぱり、ここね」
「コーンウォールは好きなんだよ」
「寒そうね。あたしは、まだカリフォルニア。メキシコのメインランドで、夏のスイム・スーツの撮影の仕事が入ったの。コンペティションいがいの仕事は、したくないんだけどね。でも、しかたがないわ」
プエルト・エスコンディード?」
「そう。タコスの食べ過ぎには気をつけなくちゃ。仕事が終わったらダカールに飛ぶから、そこで待っててよ」
「オール・ライト」
私は友人に別れを告げ、ロンドンに引き返した。
海から離れた汚い都会では一秒も過ごしたくないのだが、バケツ・ショップで安い航空券を手に入れなければならないのでしかたがない。
ボードを持ってサウス・ケンを歩くのは、閉口した。が、おかげで同日発の便に乗ることができた。
ダカールの空港は初めてだ。
物乞いと物売りのあいだをなんとか抜けて、タクシーにたどり着いた。ムーンの指名したホテルの名前を見せた。
ニヤリと、ドライバーは笑った。
車は500メートルも走らずに安宿に着いた。空港はヨフの海岸のすぐそばに立っていたのだった。
海岸は、ごった返していた。
砂浜には細長い釣り船が無数に並んでいた。漁師と子供と山羊で、埋め尽くされている。
風は、オンショア。
海から吹き付ける冷たい風が、白波を作る。
最悪だ。
それでも、私は着替えて海に出た。
やはり、テイク・オフのみのサーフィンだ。何もできやしない。
あきらめた私は人垣を抜けてホテルへ戻った。サーフ・ボードを見たことのない子供たちが、あとに続いた。









「イイ波だった?」
夕食のテーブルで、女が話しかけてきた。
こんな天気の日に、こんな質問をするのは、彼女がサーフィンをしない証拠だ。 それを知りつつ、私は礼儀として尋ねる。
「ノン。あなたもサーフィンをするのですか?」
「ノン。ノン。興味はあるんだけど、やったことはないわ。わたしは、ローザンヌに住んでいるの。海までは、ちょっと遠すぎるわ」
「だったら、ぜひ試してみるといい」
「そうね。わたしの弟はスノー・ボーダーなんだけど、コスタリカで、初めてサーフィンをして人生が変わったって言ってたわ? 本当かしら?」
「ウィ。そう言う人は多いし、僕の場合は確かにそうでした」
「なら、わたしも試す必要があるわ」
風が吹いた。
一階建てのホテルの狭い屋上がレストランになっていた。
陽は落ちたばかりで、空は紫に染まっていた。
潮は引いて、波の音は彼方から聞こえた。
「彼女の名前は、アナベル。うちの常連だ。君は、ハワイアン?」
宿の主 が皿を片づけに割って入った。彼は退職した大学教授だとガイドブックに出ていた。
「ノン。日本人です」
私は名前を名乗って、手を差し出した。
アナベルは手を取って、私の両頬にキスをした。つま先立ちになって頬をよせたアナベルは、スイス人にしては背が低かった。近づいた瞳の奥が緑に輝いていた。ぬけるように色が白い女だった。
「あなたは、プロのサーファー?」
「ノン。ノン。ただ波乗りをするのが好きなだけです。働いて金を貯めて、サーフ・トリップに出るんです。そして、金が尽きたら日本に戻って、また働く」
「いいわね。そういう生き方。わたしも思いきって仕事を辞めて旅に出たの。いつものように三週間のバカンスじゃなくて、・・・」
「永遠のバカンス」
と主が笑った。
私も笑った。
「このヨフの村にずっと滞在するんですか? それとも、これから、どこかに行くんですか?」
「カサマンスのスキリング岬に行くつもりよ」
「カサマンスは、危険なんじゃないんですか? ロンリー・プラネットには、南部の、特にギニア・ビサウとの国境近くは、テロリストが潜伏してるって書いてあったけど」
「ノン。ノン。現在、紛争はだいぶ落ち着いているんだ。問題ないよ。ヨーロッパからの観光客もだいぶ戻ってきている」
と元大学教授が言った。
「カサマンスでは、ジンベーを習いたいな」
木製のベンチの隅に置いてあった背の高い太鼓を、アナベルは「ポン」と叩いて見せた。




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