■9


アナベルはスイスに帰っていった。
スキリング岬の小さな空港から、飛びたった。シーズン最後の便だった。
私はスイスに行きたくなかった。波乗りが続けたかった。待っていれば、いずれは良いスウェルが来るような気がしていた。
これは、いいかげんな直感というわけではない。
ムーンの電子メールにあったように、大西洋の北のはしには、まだ巨大な低気圧がとどまっているかもしれない。ならば、数日後には西アフリカにうねりが来る。
それを信じてみたい気がした。
ボードにまたがったまま、目を閉じた。
今この瞬間、アゾーレス島やケープ・ベルデの群島でたっているかもしれない巨大な波を想像してみた。
そして、その波のチューブの中をライドするイメージで、テイク・オフ。
だが、ホンモノの波は小さく閉じ、私は砂にあおむけになった。
「わたしたちは、親友よね」
空港で、別れ際にアナベルが言った。
「ウィ。だから、親友は一緒に暮らしたりはしないんだ」
と私は笑った。
彼女の顔にもすこし笑みが戻った。
「そうね。寝ても、暮らさないのね」
「ウィ」
「でも、一度ぐらい遊びに来てね、親友ならば」
私は答えるかわりに彼女の体を力強く抱きしめた。抱きしめて、高く宙に持ちあげた。
アナベルは笑いながら悲鳴をあげた。
彼女の服の中にこもっていた空気が、えり首から吹いて、私の顔にかかった。ミルクのようなにおいがした。
海の中で波を待ちながら、そのときの香りを思い出していた。
あれは、日焼けクリームだったのだろうか。彼女の白い肌は敏感で、きゅうに焼くと黒くならずに赤く腫れた。アフリカの日射しは、彼女には強すぎた。
私の肌は焼けて、地元の人たちと変わらない色になっていた。アナベルは、それをとてもうらやましがった。
今日も波が小さかった。乗れる波がなかなか来ないと、ものを思う時間が長くなる。
浜には誰もいなかった。
バカンス客がいなくなると、地元の者も海岸を歩かなくなる。
私は架空のチューブ・ライドをくりかえした。
「ムッシュゥー」
オン・ショアの風の中に、呼び声がしたような気がした。
「ムッシュー、ムッシュー」
ふりむくと、聖心 の制服を着た黒人の少女が手をふっていた。白いシャツから伸びた長い腕が優雅に揺れていた。









あの学校の生徒に、知り合いはいなかった。もしかして宿の息子のガールフレンドかとも思った。が、彼女がここで私を呼ぶ理由が思い当たらなかった。
「ボンジュール、ムッシュー・ル・サーファー」
こちらを呼びつづけるので、私もじっと見つめた。
それは、ジュヌビエブだった。
私はボードをかかえて、かけよった。
「最後の飛行機が飛んでったね。あの白人女はいなくなったね」
「うれしそうだな」
「うれしくはないよ。観光客がいないとね。海がさみしくなる」
「仕事がなくなるだろ」
「まあね」
「どうしたんだ、そのかっこうは?」
「どう、にあう?」
ジュヌビエブは美しかった。これほど、この制服が似合う娘は、ジゲンショーでも見かけなかった。
私は、正直にうなずいた。
少女は、満足そうに微笑んだ。
「この服は、昔からあこがれてたの。いちど着てみたかったんだ」
「学校に通う気になったのかい?」
「学校はきらいだな」
「学校に行かないのに、制服か?」
「ただ、着てるんだ」
「ただ着るためだけに、大金をだしたのか?」
「バカ 。お金なんか出さないよ」
「盗んだんだな?」
「ノン、ムッシュー。あたしは、そんなことしないよ。人から、もらったんだ」
「男か?」
「まあね」
「お前を買った男か?」
「ムッシューには、関係ないよ」
「そうか? でも、お前を買ってくれと言いにきたんだろ?」
「ちがうよ」
「金はあるのか?」
「ある」
ポケットから札の束を取り出して、少女は見せびらかした。二、三ヶ月は生活できそうな金額だった。
「あたしは、えらいひとが好き」
「偉い?」
「強くて、戦うひと。そして、あたしも、えらくなるの。大きないえにすんで、たくさんメイドもやとうの。ムッシューに、それをいいにきたんだ」
ジュヌビエブは、そう言って立ち去った。
遠ざかるスカートのすそが、海風に舞った。長いあしの黒いはだは、白いソックスではんぶん隠されていた。
後ろ姿がまぶしかった。

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