■完璧な時代11

 

 それにしても、彼女の顔はよく知られていた。《ライオン》に入った刹那から、ひっきりなしに男達が来ては、夏乃に頭を下げていく。高坂ゼミの現役の学生。体育会のOB。背広姿の会社員。中には、近くのオフィスで働く夏乃の同僚もいるようで、異様に親しげに挨拶していく者もいた。
(こういう惨めな瞬間が、塾の男達を鍛えるんだ。これを味わうために、僕はこの学校に入ったんだ)
僕は、入学したての頃を思い出していた。 新入生にとって、春は、錬金術の季節だった。それまで、文学の中にしか存在しなかった空想の世界を、自らの手で現実へと変えていかなければならなかった。パーティー、パーティー、パーティー。並木道。陸上競技場。レジメンタル・タイ。そういった学生生活の意匠は、少し形を変えさえすれば、プリンストン、ケンブリッジ、もしくは、ソルボンヌのものとしてさえ通用するはずだった。
《紳士会》の長年の申し合わせでは、春のシーズンのライバル校との試合まで、新入生には金を使わせてはならないことになっていた。新入生歓迎コンパ、新入生歓迎合宿、週末のドライブ。語学をサボって喫茶店《あっけら館》に行けば、上級生の誰かがコーヒーをご馳走してくれたし、老姉妹が経営する隣の《一八》で骨牌に興じても、一年生は負けを払うことを求められなかった。
なぜ新人はこうも甘やかされるのか、その理由に見当がついたのは、初夏の、ここ、《ライオン》でだった。
春の学期の行事の中で、一番大切な集まりは、この観戦コンパだった。だから、それまでの渋谷や中目黒での小さなコンパに参加しなかった上級生たちも、この日だけは出席する。特に、三年、四年にもなると、サークル活動から疎遠になる女性も、この日ばかりは顔を見せる。その、年下を見下す眼差しと、女として熟しだした体と一緒に。
上級生の女性に挟まれて、僕は下を向いていた。もうここは高校ではないのだ。ここにいるは、あんな女子高生とは、まるっきり違う《女》たちなのだ。
「ねえ、そこの、ボタン・ダウンのシャツ着た新人、名前なんていうの?」
「小杉です。文学部の小杉健太です」
新入生はまだ玩具でしかないから、上級生は何も求めないのだ。
あの日から一年と半年が過ぎていた。僕自身が成長しなかった訳ではなかったが、今日夏乃の隣で感じる屈辱は、変わっていなかった。

 









 


「ワッツ・アップ?」
「サ・ヴァ?」
全身笑顔という感じの正行と修が、真っ二つに割れたサーフ・ボードを手に、ビア・ホールへ入ってきた。彼らのガール・フレンドがあとに続いた。
「おいおい、お前ら、そんなもん持って、店に来んなよ」
会長の長崎が呆れて笑いながら、声を上げた。
「どうだった、波?」
僕が尋ねると、
「いや、見てよ、この不幸な顔。ボードを折られた男の哀しげな顔」
と修が嬉しそうに答えた。
「ぜんぜん、そうは見えないでしょう?」
日焼けで肌を火照らせたミサオが、笑った。
「勝浦のマリブで、自分のマリブを折れたら、文句の言いようがないでしょ」
正行自身も満足げだった。
「でかかったんだ?」
「トリプル・オーバー・ヘッド。いや、もうサイコー。最後は、無理にチューブに突っ込んでったから、ボード折ったけどね。それだけの価値、メチャクチャ有り」
それから、修は身振りを交えて波の話をしはじめた。

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