■完璧な時代15

 

 僕はバス・ルームを出た。窓際には同じように夏乃が立っていた。鏡の前のテーブルにはカンパリ・ソーダの缶があり、夏乃の手の中には赤い液体を入れたグラスがあった。
「何、その格好? アラブの石油王みたい」
日焼けした肌に白いバス・ローブを着た僕を、夏乃は笑った。
「それも、健太くんのシナリオの一部なの? だったら、趣味悪いなあ」
「シナリオって、何ですか?」
「だって、今夜、わざわざ、銀座にホテルを取って、・・・。白状しなさい。ちゃんと、シナリオを準備してきたんでしょ。さあ、さっきのキスの続きの台詞は? その後どんな展開になるの?」
「だって、そんな、先輩とこんな風になるなんて分かんなかったから、シナリオなんて準備してきてませんよ」
「私とじゃないの。健太くんのカノジョと。私は、あくまで、ピンチ・ヒッターなんだから」
「ちがいます。代打なんかじゃないです。夏乃さんが来てくれて、僕は本当に嬉しいんです」
「《あなたが来てくれて、本当に嬉しいんです》なんて、本気で使うつもりじゃないでしょ。それはちょっと、《シナリオ・ラボ》の一員としては、恥ずかしい台詞よね」
「そうですね。確かに、月並みすぎますよね」
「未来のアカデミー賞ライターとしては、どんな台詞を頭の中に書いておいたの?」
「言わなきゃ駄目ですか?」
「そうよ。先輩の命令」
「仕方ないな。いいですか? 言いますよ」
「ええ」
「《この窓から見える光を、すべてあなたに上げます》、・・・、です」
夏乃はこみ上げてくる笑いをしばし堪えていたが、最後は耐えきれなくなって吹き出した。
「健太くん、何それ?」
「いや、だから、《僕が一つ街を作ってあげて、あなたにプレゼントする》という意味です」
「健太くんが、中東の王様か、アフリカの独裁者にでもなるってこと?」
「それでもいいんですけど、そうじゃなくてもいいんです。都市計画を自分がして、それをプレゼントするんです。小学生の時に、クラスに一人いたんですよ、《大人になったら何になりたいか》と聞かれて、ほとんどの男子が《野球の選手になりたい》って答える中で、一人だけ《公務員になりたい》って答えたヤツが。年の離れた兄貴が、県庁の土木課かなんかに勤めててね。そいつは、その後、どうなっちゃったか判らないけど、僕の心の中には、《都市計画》って言葉が残ったんです。都市を造るヤツが、一番偉いヤツなんだって考えが」
「なるほど、だから、《一番大切な物》をあなたに差し上げますという訳ね。だけど、健太くんのカノジョに、こんな台詞、通じるかな?」
「難しいかもしれません。ケイジュンは、ものすごい物質主義者だから」
「女の子は、大なり小なり、みんな、そんなもんよ。で、シナリオだと、この後どうなるの?」
「続けていいんですか?」
「いいわよ。実演してみて」
「ほんとう?」
「ええ、どうぞ」
僕は、ゆっくりと夏乃の手からグラスを取って、そっとサイド・テーブルの上に置いた。そして、隙を見せた夏乃を急に抱き上げると、そのままベッドに倒れ込んだ。黒いドレスの背後から、横になって彼女を抱きしめる格好になった。
「あ、すごい、健太くんて大胆。こんなことしちゃうんだ。大丈夫なの? カノジョにひっぱたかれちゃうかも?」
「夏乃さん、ケイジュンの話はもう止して下さい。僕、気づいたんです」
「はい、はい。ここから、新展開な訳ね」
「本気なんです。夏乃さんに、今目の前に広がる東京よりもずっと美しい街をつくってプレゼントします。一生賭けて、戦います」
「あ、その台詞、面白いな。これ、すごくいい。この状況を劇中劇に変えるのね。シナリオの中の言葉をそのまま活用して、年上の女を口説こうという展開ね」
「映画じゃありません。マジです」
「マジだったらどうするの? 私を抱くの?」
「・・・」
「抱きたかったら、どうぞ」
夏乃の体は、思っていたよりずっと小さく僕の腕の中に収まった。

 









 

 結局、その夜はそこまでだった。
「どうぞ」と迫られたとたんに、高まりが鎮まったので、夏乃が笑い出してしまったのだ。僕も笑った。笑うしかなかった。
そのうちに、前夜寝ていなかった僕は眠りに落ちたようだ。
一度、夏乃に揺り起こされたのを覚えている。
「夜が明ける前に、家に戻らなければならないの。黙って帰ってしまうのも、嫌だったから、・・・。起こしてゴメンね」
彼女がそう言うのを聞いて、僕は再び目を閉じた。
チェック・アウトの時間ぎりぎりまでベッドの中にいたあと、僕はまだ乾ききっていない制服を着て神宮球場へ戻った。
(抱けばよかったかな?)
そのあとずっと僕は考えていた。あの晩、彼女は最高のグッド・ウェイブだったのかもしれない。そんな波に乗り損なう悔しさと、大きな波の上で感じる恐怖を、僕は思い出した。
地下鉄の中でも、大学のキャンパスでも、街を歩いていても、ふと我に返る瞬間にその二つの感情がこよりのようによじれて甦った。そして、今、映画会社のエレベータの中でも、僕は夏乃先輩のことを考えていた。
(このエレベータの中だったんだよな)
春、はじめて夏乃にあったときも、彼女は黒いドレスを着ていた。僕が遅れてエレベータに駆け込んだとき、彼女は薄い唇をきっと引いて笑顔を作った。その毅然とした口元が視界にポンと飛び込んできて、
「いい女だな」
と僕は思った。
今日ももしかしたらいるかなとドアが開くときに期待したが、そこには誰もいなかった。それもそのはずだ。シナリオ・ラボラトリーの授業開始時間には、もう十五分も遅れているのだ。



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