■完璧な時代9

 

 試合は、相手チームの一方的な攻勢で進んだ。一回、二回、三回と敵は小刻みに加点していくのに、こちらはまだランナーが一人も出ていなかった。
「ここで、選手の奮起を期待して、応援歌《若き血》!」
応援指導部のリーダーが皆に聞こえるよう声を響かせた。そして、ブラスバンドの前奏が続いた。いつになくゆっくりとしたテンポだったので、応援席はざわめいた。
「点も入ってないのに、《若き血》かよ」
神宮通の長崎会長が言った。
「こら、応援指導部! 応援を私物化するな! 私物化!」
学生の一人がからかった。
「きっと、OBの奥さんでも到着したんで、ゴマするために歌うんだぜ」
事情に詳しいところを誇るように、長崎が説明した。
そして、それはその通りのようだった。スタンド裏への出入り口の通路では、両脇に並んだ応援指導部の下級生達がもうすでに頭を下げていた。
「どんなイイ女が来るのか、よおく見てやろうぜ」
長崎が出入り口を睨み付けた。
制服を着た体育会の男に囲まれ、人の群れから守られながら、それを分けるように出てきたのは、黒いドレスの女性だった。
「げっ、高坂の娘かよ!」
法学部教授のゼミでの厳しい指導でも思い出したのか、長崎の顔は苦く歪んだ。
応援指導部のリーダーは、歌の指揮を執りながら、夏乃にむかって黙礼した。応援台に立っていない副リーダーは、夏乃の側まで駆け寄り、手を取った。
「高坂はさ、むかし、野球部の顧問だったんだ。覚えてるかな、例のピッチャーのときのこと? あの甲子園のスターを入学させなかった顧問が、高坂さ。だから、体育会に顔が利くんだろうな。それにしても、ちょっと、応援指導部の連中、ペコペコしすぎだぜ」
長崎が事情通らしいところを見せた。
応援歌の斉唱が終わって、気の抜けた拍手が起きた。僕らのチームの攻撃は、あっさりと終わり、選手は守備に戻った。
夏乃は応援指導部員が準備した席を丁重に断り、僕のほうに歩いてきた。
「なんだよ、高坂の娘、こっちに来るぜ」
長崎があわてた。
夏乃は、まず、スタンドの中段に陣取った加藤先輩にむかって手を上げた。加藤さんは、手にした升酒を掲げて返礼した。そして、夏乃は僕らの席まで来た。
「こんにちは」
彼女は落ち着いた声で挨拶した。
「い、いつも、お父様には、ご厄介になっています」
動転した長崎の声は、裏返っていた。
「あ、君も、パパのゼミなの? 加藤くんとおんなじね」
「はい。
《映画紳士会》では、部長をやらせてもらってます」
「じゃあ、健太くんの同好会の先輩だ」
「はい」
「はじめまして、よろしくね」
「は、はい。いや、いいえ。もう、お会いしているんです。品プリの高坂ゼミのOB会で」
「ああ、そうなの」
「覚えてらっしゃらないかもしれませんが」
「うん。さすがにね。二百人を越えるパーティーだったでしょ。全員の名前と顔を一致させるのは、ちょっと、・・・」
「これからも、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
深々と頭を下げた長崎の肩に優しく手を置くと、夏乃は僕らに向きなおった。
「準一くん、そして、美樹ちゃん、だったわよね? バリは、どうだった?」
「ええ、もう、すっごく、楽しかったです」
体の脇に隠れた所で、美樹は準一の手を握った。
「イイ波だったですよ」
「あ、いいな。私も行けば良かった。でも、健太くんたら、私を誘わないで行っちゃうんだもの、ひどいわよね?」
「でも、健太くんは、ねえ、誘えなかったよね? だって、ねえ?」
美樹が冷やかすように笑いながら、僕の顔をのぞき込んだ。
「あ、小杉健太は、バリでずいぶんと羽を伸ばしたな、さては?」
夏乃がおどけた。
「それで、罰が当たって、今日は私が呼ばれる羽目になったのね?」
「まあ、まあ、あんまり、こいつをいじめないでやって下さい。ただでさえ、高坂さんにも振られたんじゃないかと心配して、酒にさえ手が出なかったんだから。いかがですか?」
「うん、いただくわ」
準一は、夏乃のためにバーボンを注いでやった。
紙コップをきれいに受け取ると、夏乃は僕の隣りに腰をかけた。長崎が下級生から取り上げたクッションが、すかさず座席に置かれた。
「あ、美味しい」
ワイルド・ターキーをひとくち口にすると、夏乃は言った。
「煙草がのみたくなっちゃうな、いいかしら?」
僕がうなずくと、彼女は黒いハンドバッグの中から、メンソールの煙草を取り出した。間髪をおかず、後ろに座った一年がライターの火を差し出した。
「ありがとう」
夏乃が一年坊主にむけた微笑みは、これまでに何度くりかえされたのだろうか、完璧だった。完璧な上級生の女の微笑みだった。
夏乃は髪をかき上げて、煙をフウッと吐いた。そして、顔を僕に寄せてくると、小声で言った。
「ごめんね。遅くなって」
「いいですよ。来てくれたんですから」
「ずいぶん待たせちゃったでしょ?」
「そんなことないです」
「ホント?」
「・・・。わざと、ですか?」
「そう」
夏乃の小さな顔は、一瞬だけ悪戯好きな少女のように笑うと見せて、笑みをこらえた。
「まいったな」
「上手くいった?」
「はい。効き目あり過ぎぐらいに」
「気に入ってくれた?」
「はい」
「よかった」
「応援指導部もですか?」
「うん、まあね。サクラ頼んじゃった」
夏乃はバーボンを一口飲んで、大きく瞬きをした。そして、煙草を吸い込むと、美しい横顔から秋の空にむかって煙を吹いた。
(ちっくしょう、こいつ、メチャクチャいい女だ)
と抱きしめたくなったが、僕はまだ二年で、彼女は卒業生だった。

 









 

 試合は、僕らの学校の負けだった。この頃の塾の野球部は弱く、いつも負けていた。東大にもやられて、最下位になったことさえあった。加藤さんの代の学生は、ライバル校との大切な試合に一度も勝ち点を上げることなく四年間を過ごした。
僕らはのろのろと地下鉄外苑前まで歩き、銀座線で有楽町へ出た。ビヤホール《ライオン》でのコンパには、まだ時間があった。美樹が何か食べたいと言ったので、僕らは《チネーゼ》に入った。通りに面したガラスの壁を通して、行き来する応援帰りの学生達の姿が見えた。青い《とんがり帽子》をかぶった女のコ。赤い帽子で、メガホンのように仲間を呼ぶ男。中には、球場から拾ってきたライバル校の角帽をかぶった学生もいた。
もう、この時代すでに、銀座は塾生の遊び場ではなくなっていた。たいていの学部は一、二年を日吉で過ごすことから、東横線の沿線で飲むのが普通になっていた。銀座でのコンパは、年に二回。過去の伝説に、ちょっと触れてみようとする象徴的な行為として行われた。
だから、準一も美樹も銀座には詳しくなかった。一方、僕と夏乃が通う《シナリオ・ラボラトリー》は、築地に近いところにあったし、《ラボ》の会員証を提示すると、銀座のたいていの映画館と、桟敷席での幕見なら歌舞伎座の入場料が無料になったので、二人とも、暇があると、この界隈をうろうろしていた。慣れてしまうと、この辺りには妙な田舎臭さがあって、それが不思議と居心地良いのだが、美樹も一緒となると、入る店は選ばなくてはならない。夏乃も、後輩の男達と一緒に定食屋の暖簾をくぐる気は、今日だけはないだろう。
イタリア式チャイニーズ・レストランに入った段階で、僕の難題は一つに絞られていた。それは、ホテルの部屋をキャンセルするかどうかということだった。



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