■2

ムーンからの連絡はなかった。
季節風は吹き続け、向きが変わる気配はなかった。それにしても、ヨフの海岸は汚い。どこに行っても山羊の糞だらけだ。
片貝の冬の海のコンディションを思って、私は後悔し始めた。
金曜日になった。
カサマンス地方の中心都市ジゲンショー行きのフェリーは、今日の午後に出航する。
アナベルはパッキングを済ませ、ホテルの主人に車を手配させていた。
「タロウ、じゃ、お別れね」
「ノン。必ずしもそういうわけじゃないよ」
私はサーフ・ボードを車の屋根の上に積んだ。
「荷物らしい荷物なんてない。荷造りは二分で足りる。だから、ちょっと待ってくれないかな?」
アナベルは微笑んだ。
車はダカールの港へむかう幹線道を走った。砂ぼこりのたまった道は、砂漠の近さを思い出させた。
フェリーは貨物の積み込みに手間取り、予定時間をかなり遅れてのんびりと波止場を離れた。
「あなたは、誰かを待っていたんじゃなくて?」
遠ざかる港をデッキから見ながら、アナベルが言った。
「ムーンのことかい?」
「そう。あなたのガールフレンド?」
「そういう関係じゃないな、たぶん」
「友達?」
「たぶん。たぶん、親友」
「親友。いいわね。セックスしない異性の親友」
「たまには、寝ることもあるけど」
「・・・」
「寝ても、親友」
アナベルは笑った。
「いいの? 親友を待ってなくて?」
「あのコなら、いいんだ。心配はいらない。とってもタフなコで、来たくなったら、一人で来るさ」
「優しくないのね」
「そう。優しくはないな。・・・。風が冷たくなってきた。中に入ろう」
一等船室は広かった。
指定の椅子も、飛行機のそれと遜色ないほど座り心地が良かった。
「23時間かかるのだから」と言うホテルの主人の忠告に従って、一等にしたのは間違いではなかった。
目を閉じると、眠気はすぐにやってきた。
となりで、アナベルも小さな寝息をたてていた。
何時間眠ったのかは、わからない。目が覚めたときには、夜になっていた。
「あと何時間くらいかしら?」
アナベルはかなり前に目をさまし、私が目を開けるのを待っていたようだった。
私は、バッグからボトルを取り出し、ミネラル・ウォーターを飲んだ。
「まだ、かなりある。時間のことは、考えないほうがいい。飲むかい?」
アナベルは、ボトルの口を拭わなかった。白い小さな喉をこくりと動かして、一口飲んだ。
そして、容器のラベルに目をとめた。
「これ、スイスの会社ね。私の家のそばにも、工場があるわ。もっとも、この会社は世界中いたるところに、工場を建てているけど」
「もう、ホームシック?」
「ノン。ノン。スイスなんか、好きじゃないわ。あの国は、もう終わりよ」
「僕の国だって、そうさ」
「ノン。ノン。あなたは、知らないから。スイスは、半分死んでるわ。老人の国よ」
「老人の数なら、僕の国も負けない」
「あなたの国もだめなの? スイスは、もうだめ。ルールでがんじがらめで、息が詰まるわ。だから、逃げだしてきたの。あなたも、逃げだしてきたの?」
「かもしれない」
「もう戻らないの?」
「気持ちの上では、もう完全に離れている。ただ、あの国は金を稼ぐには便利な国だから、ときおり戻って金を稼ぐ」
「わたしは、もう帰る気はない。積み立ててきた年金をすでに返してもらったから、当分それで生きていくわ」
「かなりの金額なんだ」
「ウィ。かなり。七年間も働いたから」
「スイス・フランは強いからな」
「看護婦をしていたの。死んでいく人たちの面倒をみるのは、疲れたわ。太陽が一年じゅう輝く場所で、生きている人と暮らしたくなったの」
「カサマンスに着いたら、どうするんだい?」
「何もしない。村人に混じって、ただ暮らすわ。そして、ジンベーを習う。太鼓を叩いて、ただ暮らすの」
「それに、サーフィンも加わった」
「ウィ、ウィ。サーフィンも、・・・。海辺に家を見つけたらね」









私たちの脇の通路を、たえることなく乗客が行き来していた。
セネガル人の男がアナベルの隣りに立ち止まった。
「ボン・ジュール。フランスから来たのかい、マドモアゼル?」
「ノン。スイスから」
あごで、私をさして、
「ボーイフレンド?」
とアナベルに尋ねた。
彼女は返答に迷って私を見た。
そうだ、と答えても良かったのだが、ムーンの話をしたことが私に躊躇させた。
男はそのスキをついて、私の隣の空いた席をゆびさした。
「誰もいないのかい? だったら、つめてくれ」
ウィもノンも言わせず、男は腹でアナベルの肩を押していた。アナベルは立ち上がる以外なかった。
私は、しぶしぶと席を移った。
「スキリング岬に行くのか?」
アナベルの椅子の背もたれに腕をまわしながら、セネガル人はこちらを見た。
「ウィ」
「そうか。スキリング岬は、いい所だ。俺が生まれた場所だからな。俺は、セネガル人だ」
「わかっている」
と答えた私を、男はにらんだ。
「俺は、アフリカのブラックマンだ。ブラックマンであることを誇りにしている」
黒い顔に、鮮やかな白い目がむき出た。
「ブラック・イズ・ビューティフル、イエー」
男は英語で言った。
「イエー、ザッツ・ラアイ」
アナベルと私は、何も答えなかった。
「俺の名前は、イシマエルだ」
男は、アナベルに手を差しだした。
彼女はそれを握り返さずをえなかった。
「イシマエルは、喉が渇いてるんだな。マドモアゼル、この水を少し飲んでもいいかな?」
イシマエルはすでに、アナベルが抱えていたボトルに手をかけていた。
「これは、わたしのじゃないわ」
男は私を向いた。
「この水は、お前のか?」
「そうだ」
「飲んでもかまわないよな?」
ここで、ノンと言えば、私は人種差別主義者だ。
男も、それを充分心得た上できいてきていた。
「どうぞ」
イシマエルは、ニヤリとした。
「ありがとよ」
そして、ボトルの口に吸い付くと、ゴクリゴクリと音をたてて水を飲んだ。
「スキリング岬には、何日ぐらい泊まるんだい? なんなら、安い宿を紹介しようか? 友達のホテルだ。マドモアゼル、一週間かい、それとも、十日?」
「わからないわ。良い家族を見つけて、その人たちと住むつもりだから」
「それは、いい。だったら、俺の兄貴の家に住めばいい。大家族だから、ひとりふたり増えたところで、問題はない。ホテルじゃなくて、本当のアフリカの生活ができる。兄貴の所は、そんな観光客を泊めたことが何回もあるから、よく分かっているさ。アンタは、ラッキーだよ、マドモアゼル。この船の中で俺と出会ったんだからな。この男も、一緒に来るのか?」
「ノン。僕は、サーファーだ。海岸に宿をとる」
「シー、シー。兄貴の家は、浜からも近い。泊まれ、泊まれ」
「ノン、結構だ。サーフ・ブレイクの目の前に泊まりたいんだ。だから、僕は、僕で、探すよ」
「それなら、まあ、いい。でも、マドモアゼル、あんたは来るだろう? 家族に混じって、ヤサを手で食べたいんだろ? それから、兄貴はジンベーだって教えてやれるよ」
「ジンベー?」
ついに、男はアナベルの気持ちを捕まえた。
荷物を太鼓代わりにして、彼女にジンベーの叩き方を教えはじめた。
「腹が減ったな」
そう言って、イシマエルが立ち上がったときには、一時間も経っていた。
「ビュッフェで何か食べないか?」
「ウィ」
「ジャパニーズ・サーファー、お前も食べに行かないか?」
と誘われたが、私は断って、窓の外を見た。外は真っ暗で、鏡となったガラスには、船室の客が映っていた。
立ち上がって歩きだしたふたりが見えた。
イシマエルはビュッフェでビールを取ると、その場で飲みほした。そして、大きなバゲットにはさまったサンドイッチを二つ脇に抱えた。
アナベルは、ミネラル・ウォーターの小瓶を買って、金を払った。
イシマエルは金を払おうとしなかった。
売り子が催促すると、彼はアナベルをゆびさした。
売り子に求められ、アナベルはしまったばかりの財布をもう一度ジーンズのポケットから出さねばならなかった。

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